長谷川千秋blog

長谷川家の古いトランクから

長谷川家の古いトランクや鞄を2022年正人の妻や娘たちが確認した際の写真を公開。手書きの手紙や小説、楽譜、フィルムなどが見つかった。

ネガフィルムを確認すると、写真を撮り合う千秋と妻・幾(いく)の姿が写っていた。1937年(昭和12年)ごろの鵠沼海岸への新婚旅行の写真と思われる。

   

長谷川千秋と長谷川幾(市田幾)

    

鞄からは妻の幾の教員免許状も確認された。戦前から英語を学んでいた幾は、戦後、英語の通訳や教師を務めた。

戦時中に禁止されていた英語の歌を口ずさんでしまった幾に、千秋は「勉学ならいいが、趣味ならやめてくれ」と言ったことや、千秋が幾に『古事記』の講義をしたエピソードが、後に幾から語られている。

  

長谷川幾は父親の死をきっかけに女子大の英文科を中退していた。見合いの際、千秋は、なおさら幾のそばにいるべきだと感じたことを話している。千秋の出征後も幾はしばらく東京 吉祥寺に住み、子供二人を育てる中、ミノファーゲン製薬に努めた。家事と子守りは幾の妹の逢子が同居でサポートし、勤め先の年下の女性たちが家に遊びにくることもあったという。その後戦況が激しくなり、先に子供と叔母は青森県 弘前市に疎開。東京空襲の際、一人だった幾は、向かいに住んでいた野田宇太郎の妻とともに戦火を逃げきった。空襲を生き延びた幾は青森へ向かい、子供達や妹と再会、終戦を迎えた。

戦後の幾は青森で、英語の通訳として働き、昭和24年(1949年)中学校の教員免許を取得している。