小説家・作曲家・音楽研究家として戦前を生きた男
長谷川千秋(1908-1945)
静岡県出身、東京大学文学部卒。
小説家、音楽家、音楽研究家、作曲家として多彩な活動をした。
小宮豊隆の助手として東北で神楽の収集を行い、
赤坂「フロリダ」でバイオリニストとして演奏し、
水原吉郎名義で書かれた小説は芥川賞候補となって川端康成に認められ、
さらに評伝「ベートーヴェン」を出版し、
島崎藤村詩を作曲した楽譜を出版している。
昭和 20 年の沖縄戦で 36 歳の短い生涯を終えた。
西暦 | 年号 | 記事 |
---|---|---|
1908 | 明治41 |
8月22日 父長谷川松太郎、母よしの三男として 小川新地1803(小川村小川355)現焼津市に生まれる 小川小学校を卒業 生家の建物は90年代には現存していた |
1923 | 大正12 |
藤枝へ移転、実家の二階で関東大震災に遭う C マイナーの意味を知らなかったエピソードがある 家族でマンドリン合奏を楽しんだりした |
1926 | 大正15 |
静岡県立静岡中学校卒業 静高へ 寺田寅彦の次男正二と出会い、トリオを楽しむ |
1929 | 昭和4 |
静岡高等学校を卒業 東京大学へ 学生オーケストラを指揮、コントラバスも受け持った プリングスハイムのもとへオケ仲間と通う 信時潔に師事する |
1933 | 昭和8 |
東京大学文学部美学科卒業 専攻は音楽美学 東北大教授(独文)の小宮豊隆の私的な助手となり 東北の古代演劇の研究として神楽の採譜をする |
1935 | 昭和10 |
「寺田先生」を書く 病床に寅彦を見舞った小文である |
1937 | 昭和12 |
市田幾と見合い結婚し、高円寺馬橋を新居とする |
1938 | 昭和13 |
「ベートーヴェン」(岩波新書)を執筆 長女梢誕生 |
1940 | 昭和15 |
「藤村詩作曲集」(小山書店)を発行した コンサートもこの年で、歌は四家文子だった 長男正人誕生 阿佐ヶ谷に移転し幾の家族と同居した 短編「ジュリエット」が川端康成の目にとまる |
1941 | 昭和16 |
芥川賞候補作「火渦」「腕」を発表 ペンネームは水原吉郎 三鷹台に転居、家族四人はこの時だけ |
1943 | 昭和18 |
「ショパン」(新潮社)発行 年代は特定できないが、このころ映画音楽に手を染めたり 校歌塾歌など依頼されたらしい 音響についても研究、共著をのこしている |
1944 | 昭和19 |
召集令状により入隊 幾は四ツ谷駅で別れたという 佐倉での面会日は混雑を予想し弟一忠と幾だけが赴いた その後沖縄に送られたと聞く 家族宛の多数のハガキが残った |
1945 | 昭和20 |
6月戦死と後に伝えられる 声をだして呼べないほどの戦況のなか 目も耳も不自由になってしまった千秋を 上官はベルトにつかまらせて移動していた 分かっているのはそこまでである |
1947 | 昭和22 |
戦死の公報がもたらされる 幾の手箱に「千秋の消息は不明」との厚生省援護局の ハガキがしまわれていた |
1948 | 昭和23 |
小山書店では千秋の追悼会を催してくれた 出席は寺田正二、川端康成、小宮豊隆、安部能成ほか多数 折り悪しく小山書店ゆかりの太宰治の遺体がみつかり人々が次 次と中座していったのを弟一孝が記憶している 焼津の教念寺で葬儀がいとなまれた(十九回忌、二十三回忌も) |
1981 | 昭和56 |
転墓法要を焼津と弘前でおこない、千秋は新寺町法源寺に眠る |
1988 | 昭和63 |
楽友協会(オーストリア)に「ベートーヴェン」を寄贈 「ベートーヴェンを連れてきた男」 小説新潮6月号 石堂淑朗 「ベートーヴェンになりたかった男」 放送劇(NHK)8月6日 |
1992 | 平成4 |
「藤村詩集を歌う」というバリトン吉江忠男のコンサートに 千秋作が二曲ふくまれているとの報がもたらされる 「舟路」と「月夜」だった |
1994 | 平成6 |
千秋五十回忌のため「千秋の初恋」と題してCDを製作 「藤村詩作曲集」を復刻した 東奥日報紙 焼津市広報誌などに反響が掲載された |
2002 | 平成14 |
妻、幾89歳で逝去 |
敬称略